富士に横たふ天の川
「荒海や佐渡に横たふ天の川」
有名な松尾芭蕉の句ですが、実際に新潟から佐渡の上に「横たわる」天の川の姿は見ることが出来ないのだといちゃもんを付ける人は多いです。しかし、横だの縦だのと言うのは地球上にいる人間目線の偏狭な捉え方です。宇宙には上も下もないんですから。それに、特定の方向だけ見た場合には確かに「立った」天の川なのかも知れませんが、頭上を越えて反対方向の地平線まで達する雄大な天の川を見たら、「横たわる」と言いたくなるのもわかる気がします。
上の写真は山梨県の鳴沢村で撮影してきたものですが、同様に富士山の上に横たわる姿ではないです。この日は終始雲に邪魔されて、撮影枚数の割に良い状態で撮影できたカットがいくらもありませんでした。
まぁ雲がある風景もそれはそれでよし。
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色々と写るもの(+RAW現像の話)
カメラの世界は銀塩方式からデジタルに移行して久しくなりました。
銀塩の頃の例えばポジフィルムなどを確認する際には、ライトボックスの上に載せてルーペでと言うのが定番でした。それがデジタルになるとパソコンの画面上で拡大も縮小も思いのままに確認することが出来ます。銀塩写真を大延ばしにするのはそれなりに大変でしたが、デジタルの場合には画面上であればどの部分でも自由に拡大できます。最近は画素数も上がって来て、撮った写真を大変細かい所まで拡大してみても耐えられるようになってきています。
そのようにして今まで撮ってきた写真を見てくると、なんだろうこれ? と思うようなものが写っていたりすることがあります。
これは石巻のO小学校で撮影したもの。画像中央にぼやけた白く淡い光が写り込んでいます。原因は色々と考えられることは考えられます。レンズの直前を昆虫のようなものが横切ったとか、レンズのゴースト(写真用語の)。しかし、別のカットでも似たようなものが写り込んでいて、そちらは続きのコマに位置を変えながら飛んでいるような感じに写っていたりするので、ゴーストの可能性は低いかな。
これも同じ小学校での一コマです。赤く丸で囲った部分の中に“クリオネ”のような形をした光が写り込んでいます。これ一枚だと天井のシミとか汚れなどと言われそうですが、同じ個所を写した前のコマでは
そのようなものは写り込んでいないんです。まぁ、トンボのようなものがレンズの前を横切ったと言えなくもないんですが。
こちらは同じ小学校の敷地内に地震後に建てられた慰霊碑を遠くから望遠で撮影したもの(の一部)。赤い丸の中に何やら光っているものがあります。
その部分を強拡大したのがこれ。森の中で光っているように思えます。最初は木洩れ日かなと思ったのですが、後ろは急斜面の山でとても木々の後ろから日が差すなどは有り得ないとわかりました。反射率の高いガラスのようなものに光が反射していると思えなくもないですが、森の暗さと光の光量からするとちょっと考えづらいです。
このO小学校ではこんな感じで色々と不思議なものが写りました。
これは前にホタルの撮影で登場した写真です。
赤く囲った丸の中に何やら光るものがあります。ここは、夜間にホタルを見に来る人たちの為に、歩道上にところどころLEDランタンが設置してあり、この写真にも写っています。でも丸の中の光はそれらとは明らかに性質が違うようです。しかも、いくつか撮影したカットの中でこの場所にこのような光が写っていたのはこれ一枚だけです。
実はこの赤丸で囲った場所って、墓地なんです。
その部分を強拡大したものです。撮像素子のノイズがちらほら散見されますが、それらとは比べ物にならないほどの大きさです。右側が赤っぽく左側が緑っぽく写っているのは、レンズの倍率色収差という奴です。この写真はRAWで撮影したものをAdobeのLightroomでRAW現像しました。その際、色収差の補正をONにしたのですが、補正しきれていないようですね。でも、色収差が出るという事は、素子のノイズなどではなく、外からレンズに入って来た光だという事の証明にもなります。
試しにAdobe Photoshop CCでRAW現像してみたものです。同じAdobeのソフトですから、Lightroomとはあまり変わらないですね。同時に保存されているJPEG画像の方はほとんど色収差が見られないので、もしやと思いNikonのView NX2でRAW現像してみました。
見事に色収差は消えていますが、全体的な色合いが赤っぽくなり、フィルターでぼかしたような感じになっています。RAW現像のソフトによってここまで違いが出るので、RAW現像は良く考えてやらないと…
ちょっと脱線しました。
この光は“ホタル”ではないかと思う人も居るかも知れませんが、ホタルの光は緑色をしていて、このような光とは異なります。しいて原因をこじつけると、遠くを走る車のヘッドライトの灯りが墓石の表面に反射している、ということでしょうか。
以前、天の川のタイムラプス撮影した時に、その中の1コマにくねくね曲がる光の筋が写り込んだことがありました。それはまさしくホタルだった訳なんですが。
さすがにこんな写真が写ることは今では無いですけどね。残念ながら。
銀塩の頃の例えばポジフィルムなどを確認する際には、ライトボックスの上に載せてルーペでと言うのが定番でした。それがデジタルになるとパソコンの画面上で拡大も縮小も思いのままに確認することが出来ます。銀塩写真を大延ばしにするのはそれなりに大変でしたが、デジタルの場合には画面上であればどの部分でも自由に拡大できます。最近は画素数も上がって来て、撮った写真を大変細かい所まで拡大してみても耐えられるようになってきています。
そのようにして今まで撮ってきた写真を見てくると、なんだろうこれ? と思うようなものが写っていたりすることがあります。
これは石巻のO小学校で撮影したもの。画像中央にぼやけた白く淡い光が写り込んでいます。原因は色々と考えられることは考えられます。レンズの直前を昆虫のようなものが横切ったとか、レンズのゴースト(写真用語の)。しかし、別のカットでも似たようなものが写り込んでいて、そちらは続きのコマに位置を変えながら飛んでいるような感じに写っていたりするので、ゴーストの可能性は低いかな。
これも同じ小学校での一コマです。赤く丸で囲った部分の中に“クリオネ”のような形をした光が写り込んでいます。これ一枚だと天井のシミとか汚れなどと言われそうですが、同じ個所を写した前のコマでは
そのようなものは写り込んでいないんです。まぁ、トンボのようなものがレンズの前を横切ったと言えなくもないんですが。
こちらは同じ小学校の敷地内に地震後に建てられた慰霊碑を遠くから望遠で撮影したもの(の一部)。赤い丸の中に何やら光っているものがあります。
その部分を強拡大したのがこれ。森の中で光っているように思えます。最初は木洩れ日かなと思ったのですが、後ろは急斜面の山でとても木々の後ろから日が差すなどは有り得ないとわかりました。反射率の高いガラスのようなものに光が反射していると思えなくもないですが、森の暗さと光の光量からするとちょっと考えづらいです。
このO小学校ではこんな感じで色々と不思議なものが写りました。
これは前にホタルの撮影で登場した写真です。
赤く囲った丸の中に何やら光るものがあります。ここは、夜間にホタルを見に来る人たちの為に、歩道上にところどころLEDランタンが設置してあり、この写真にも写っています。でも丸の中の光はそれらとは明らかに性質が違うようです。しかも、いくつか撮影したカットの中でこの場所にこのような光が写っていたのはこれ一枚だけです。
実はこの赤丸で囲った場所って、墓地なんです。
その部分を強拡大したものです。撮像素子のノイズがちらほら散見されますが、それらとは比べ物にならないほどの大きさです。右側が赤っぽく左側が緑っぽく写っているのは、レンズの倍率色収差という奴です。この写真はRAWで撮影したものをAdobeのLightroomでRAW現像しました。その際、色収差の補正をONにしたのですが、補正しきれていないようですね。でも、色収差が出るという事は、素子のノイズなどではなく、外からレンズに入って来た光だという事の証明にもなります。
試しにAdobe Photoshop CCでRAW現像してみたものです。同じAdobeのソフトですから、Lightroomとはあまり変わらないですね。同時に保存されているJPEG画像の方はほとんど色収差が見られないので、もしやと思いNikonのView NX2でRAW現像してみました。
見事に色収差は消えていますが、全体的な色合いが赤っぽくなり、フィルターでぼかしたような感じになっています。RAW現像のソフトによってここまで違いが出るので、RAW現像は良く考えてやらないと…
ちょっと脱線しました。
この光は“ホタル”ではないかと思う人も居るかも知れませんが、ホタルの光は緑色をしていて、このような光とは異なります。しいて原因をこじつけると、遠くを走る車のヘッドライトの灯りが墓石の表面に反射している、ということでしょうか。
以前、天の川のタイムラプス撮影した時に、その中の1コマにくねくね曲がる光の筋が写り込んだことがありました。それはまさしくホタルだった訳なんですが。
さすがにこんな写真が写ることは今では無いですけどね。残念ながら。
ツタンカーメンと伝説の王妃
先日(18日)にTBSで表記の番組をやっていたので見てしまいました。
見ていて一言書きたくなってきたのでこれを書いています。
番組で言っていたのは、ツタンカーメンの黄金のマスクは元々ネフェルティティの為に作られたものを流用したものである、という事です。その証拠として示されたのは、黄金のマスクに描かれているツタンカーメンの王名を示すカルトゥーシュの部分が、元々描いてあった名前を削ってその上に描かれているというもの。
それがこれだそうです。緑の線が現在のツタンカーメンの名前を示す部分で、赤い線が元々書いてあったものの消し残り。黄色の線は「多分こうじゃないかな?」という推測の部分です。これはエジプト考古学者のニコラス・リーヴス氏が発表したものです。「おいおい推測の部分ばっかりじゃんかよ」と思う人は目の付け所が良いです。テレビが言う事だからと鵜呑みにするとひどい目にあいますからね。しかしこれには一応根拠があります。
これはツタンカーメンの王墓の発見者、ハワード・カーターのリポートにある、ツタンカーメンの墳墓に納められていた木箱に描かれているカルトゥーシュの一覧です。ここで重要なのが
この部分です。さっきのリーヴス氏の推測と同じものです。私は恐らく彼の推測は間違っていないのではないかと思います。番組ではこれを「ネフェル・ネフェルウ・アテンと書いてある」と説明していましたが、どこにもそんなことは書いていません。エジプト考古学者はここに書いてあるヒエログリフを「Ankhkheperure Mery-Neferkheperre」などと書き表します。なんだかわかりませんよね。「アンク・ケペルゥ・ラー メリィ・ネフェル・ケペル・ラー」なんて発音します(ラーはレーとも発音する)。ここで大事なのは「アンク・ケぺルゥ・ラー」のところで、これが木箱の主の名前です。ネブ・ケペルゥ・ラー(ツタンカーメン)とは書いていないんですね。
でもって、番組ではこのアンク・ケぺルゥ・ラーをツタンカーメンの前王と言われるスメンクカーラーであると断定していました。更にはスメンクカーラーはアクエンアテン(アケナテン)の妃であるネフェルティティであるとも断定していました。おいおいちょっと待ってくれ、それはリーヴス氏の言っている説だけど学会のコンセンサスは得られていないだろう・・・。
エジプトのファラオは同時にいくつもの名前を持っていますが、確かにスメンクカーラーもアンク・ケぺルゥ・ラーと名乗っていることは確かです。ただ、スメンクカーラーは謎の多いファラオで、メリィ・ネフェル・ケペル・ラーというエピセット(形容辞)を付けている例は無いようです。そこで出てくるのが先ほどTBSの解説で出て来た「ネフェル・ネフェルウ・アテン」です。木箱の王名の中にも登場しています。
なので、TBSで言っていたのもあながち嘘ではないのですが、ちゃんと説明しなきゃダメでしょ。
つまり、ツタンカーメンの黄金のマスクに書かれていたであろう「アンク・ケペルゥ・ラー」とは「ネフェル・ネフェルウ・アテン」と考えて恐らく間違いではないような気はします。ネフェル・ネフェルウ・アテンは他の出土品に書かれていたエピセットから女性であることが判明しています。スメンクカーラーは男であると考えられていますし、ネフェル・ネフェルウ・アテン=ネフェルティティというのも一部の学者が唱えている学説に過ぎません。他の説として、ネフェル・ネフェルウ・アテン=メリト・アテン(スメンクカーラーの妃)と言う説があります。先ほどの王名リストに登場する
このカルトゥーシュに囲まれた名前がそうです。ネフェル・ネフェルウ・アテンという名前はネフェルティティも使っていましたのでリーヴス氏はネフェル・ネフェルウ・アテン=ネフェルティティと考えたのでしょうけど、このメリト・アテンの部分はどう説明されているんでしょうかね?
再現ドラマの方もクッサイ演技で失笑もの。壁の奥に空洞がありそうだという調査結果のところだけが面白かっただけでした。奥に行けたらどんな世界が姿を現すのでしょうか。リーヴス氏の言うようにネフェルティティの埋葬品が出て来た日には潔くケチを付けたことを謝罪します。
見ていて一言書きたくなってきたのでこれを書いています。
番組で言っていたのは、ツタンカーメンの黄金のマスクは元々ネフェルティティの為に作られたものを流用したものである、という事です。その証拠として示されたのは、黄金のマスクに描かれているツタンカーメンの王名を示すカルトゥーシュの部分が、元々描いてあった名前を削ってその上に描かれているというもの。
それがこれだそうです。緑の線が現在のツタンカーメンの名前を示す部分で、赤い線が元々書いてあったものの消し残り。黄色の線は「多分こうじゃないかな?」という推測の部分です。これはエジプト考古学者のニコラス・リーヴス氏が発表したものです。「おいおい推測の部分ばっかりじゃんかよ」と思う人は目の付け所が良いです。テレビが言う事だからと鵜呑みにするとひどい目にあいますからね。しかしこれには一応根拠があります。
これはツタンカーメンの王墓の発見者、ハワード・カーターのリポートにある、ツタンカーメンの墳墓に納められていた木箱に描かれているカルトゥーシュの一覧です。ここで重要なのが
この部分です。さっきのリーヴス氏の推測と同じものです。私は恐らく彼の推測は間違っていないのではないかと思います。番組ではこれを「ネフェル・ネフェルウ・アテンと書いてある」と説明していましたが、どこにもそんなことは書いていません。エジプト考古学者はここに書いてあるヒエログリフを「Ankhkheperure Mery-Neferkheperre」などと書き表します。なんだかわかりませんよね。「アンク・ケペルゥ・ラー メリィ・ネフェル・ケペル・ラー」なんて発音します(ラーはレーとも発音する)。ここで大事なのは「アンク・ケぺルゥ・ラー」のところで、これが木箱の主の名前です。ネブ・ケペルゥ・ラー(ツタンカーメン)とは書いていないんですね。
でもって、番組ではこのアンク・ケぺルゥ・ラーをツタンカーメンの前王と言われるスメンクカーラーであると断定していました。更にはスメンクカーラーはアクエンアテン(アケナテン)の妃であるネフェルティティであるとも断定していました。おいおいちょっと待ってくれ、それはリーヴス氏の言っている説だけど学会のコンセンサスは得られていないだろう・・・。
エジプトのファラオは同時にいくつもの名前を持っていますが、確かにスメンクカーラーもアンク・ケぺルゥ・ラーと名乗っていることは確かです。ただ、スメンクカーラーは謎の多いファラオで、メリィ・ネフェル・ケペル・ラーというエピセット(形容辞)を付けている例は無いようです。そこで出てくるのが先ほどTBSの解説で出て来た「ネフェル・ネフェルウ・アテン」です。木箱の王名の中にも登場しています。
なので、TBSで言っていたのもあながち嘘ではないのですが、ちゃんと説明しなきゃダメでしょ。
つまり、ツタンカーメンの黄金のマスクに書かれていたであろう「アンク・ケペルゥ・ラー」とは「ネフェル・ネフェルウ・アテン」と考えて恐らく間違いではないような気はします。ネフェル・ネフェルウ・アテンは他の出土品に書かれていたエピセットから女性であることが判明しています。スメンクカーラーは男であると考えられていますし、ネフェル・ネフェルウ・アテン=ネフェルティティというのも一部の学者が唱えている学説に過ぎません。他の説として、ネフェル・ネフェルウ・アテン=メリト・アテン(スメンクカーラーの妃)と言う説があります。先ほどの王名リストに登場する
このカルトゥーシュに囲まれた名前がそうです。ネフェル・ネフェルウ・アテンという名前はネフェルティティも使っていましたのでリーヴス氏はネフェル・ネフェルウ・アテン=ネフェルティティと考えたのでしょうけど、このメリト・アテンの部分はどう説明されているんでしょうかね?
再現ドラマの方もクッサイ演技で失笑もの。壁の奥に空洞がありそうだという調査結果のところだけが面白かっただけでした。奥に行けたらどんな世界が姿を現すのでしょうか。リーヴス氏の言うようにネフェルティティの埋葬品が出て来た日には潔くケチを付けたことを謝罪します。
黄昏時の筑波山
下館陸軍飛行場跡探訪
下館市の南にある関城町にはかつて旧日本陸軍が建設した飛行場がありました。今回はそこの探訪記です。
下館から南に関東鉄道常総線が走っています。下館駅の次の大田郷駅から、昔は支線が鬼怒川の方まで伸びていました(昭和39年廃止)。その支線の南側の広大な敷地を使って飛行場があったようです。元々は熊谷陸軍飛行学校の分教場として開設されたそうですが、途中から宇都宮陸軍飛行学校の分教場に変更となりました(参考サイト)。
(地理調査所(現国土地理院) 昭和29年発行5万分の1地形図『結城』より抜粋)
この地図はすでに終戦後で、飛行場用地は払い下げられていたのではないかと思いますが、飛行場の輪郭は掴めると思います。
(国土地理院 平成27年5月発行 1/25000地形図『下館』より抜粋:位置の書き込みは夜行虫)
現在のこの地域の様子です。地図上に「掩体壕」と記入した所には、飛行機を隠しておくための掩体壕が現在でも残っています。
(出典:国土地理院ウェブサイト:http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1より昭和22年撮影空中写真 USA-M606-62より抜粋)
上の地図で「掩体壕」と書いて囲んだところがこの空中写真の左下隅に当たります。道沿いに馬蹄形の構造物がいくつも並んでいるのが見えますが、これが掩体壕です。屋根が無い無蓋掩体壕というもので、土を盛って囲いを作っただけの簡単なものです。この写真の左半分の大部分は現在は家畜改良センターの敷地となっています。その敷地の周囲の道路沿いを歩いてみました。
これは道が直角に折れ曲がる所の南側の掩体壕の一部です。このように今では雑木林のなかに埋もれて全体を俯瞰できるような場所はありません。
上と同じ掩体壕の土手が道路に面した場所。
直角カーブの少し北側の二つの掩体壕がこの茂みの中に隠れています。
カーブ曲がって北側1つ目の掩体壕の土手です。
ここは先ほどの掩体壕よりは見やすい感じです。土手の感じがしっかり残っています。
南から二つ目と思われる掩体壕の土手。南側の壁だと思います。
ここより北側の掩体壕はほとんど残っていないように思います(あっても一か所)。
こういう所の調査はこんな時期に行くものではないと後悔しました(笑)。藪蚊がすごく多いし。
でもこんな光景も見られました。実は天然もののカブトムシが樹液を吸っているところを見るのは初めてだったりするのです(街灯に飛んで来た奴とかなら見たことありますが)。
さて次は分教場や格納庫やらがあった場所です。飛行場の北東隅になります。
(出典:国土地理院ウェブサイト:http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1より昭和36年撮影空中写真 MTK619-C5-8より抜粋、目的位置等を加筆)
これは昭和36年撮影の空中写真ですが、丸い構造物がいくつか見られます。恐らく、弾薬庫や燃料庫なのではないかと想像しています。
(出典:国土地理院ウェブサイト:http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1より平成20年撮影空中写真 CKT20082-C4-22より抜粋、目的位置等を加筆)
平成20年の空中写真です。昭和36年の写真に記した番号の3と4が残っているのが判ります。
1の場所です。
今では家が建っていてその敷地内です。もしかしたらその残骸が残っている可能性は有りますが、今回は調査できませんでした。
1の一つ北側の十字路にあるコンクリート塀。詳細は不明ですが飛行場当時からあるものかも知れません。疑わしいものは取りあえず撮影。
2の場所です。
今はこの一角は太陽光発電に使用されていて見る影もありません。
ただ、この太陽光発電所の敷地内に昔の井戸のようなものがあるのを発見しました。何時のものかははっきりしませんが、飛行場当時のものの可能性もあります。
道路を挟んで向かいには茨城放送の中継所のアンテナが立っていました。
3の場所です。
ここは最近まで残っていたようですが、残念ながら今は太陽光発電所が建設されてしまいました。
もしかしたら昔の境界標?かと思って撮影しました。疑わしいものは取りあえず撮影。
4の場所です。
ここも最近まで残っていたようですが、今は中古車の解体場になっていました。
5の場所です。
ここは空き地なのでもしかすると何かが残っている可能性がありましたが、近くに家が建っていたりするので入るのは諦めました。何となく盛り上がっている個所がそれ???
これは平成20年の空中写真の中に四角で囲った場所にあった昔のコンクリート塀と思われるもの。多分敷地の境界だったのだと思います。
その後は、浄水場の北側の小道をぶらぶら散策してみました。
これは当時の境界標でしょうか?なにも掘られていないので詳細は不明です。
ハグロトンボのオスです。近くにはメスも居ました。
通称アリジゴク。ウスバカゲロウの幼虫の住家です。昔、飼育してウスバカゲロウが孵るのを観察したのを思い出しました。
元飛行場の中心部を南北に走る道は「飛行場通り」と呼ばれています。
飛行場通りの中ほどの公民館の敷地には靖空神社が立ってます。元々は分教場の敷地の方にあったものを移設したそうです。
これは家畜改良センターの南東端に立っている詳細不明な建物。なんとなく昔の駅舎を移築したような感じ。トイレと待合室のような感じの部屋がありました。
その敷地内にあった井戸。もしかしたら昔からのものかも知れません。
一通り見終わった後には、昨年の洪水で被害を受けてしばらく休業していたビアスパーク下妻に行って汗を流しました。
下館から南に関東鉄道常総線が走っています。下館駅の次の大田郷駅から、昔は支線が鬼怒川の方まで伸びていました(昭和39年廃止)。その支線の南側の広大な敷地を使って飛行場があったようです。元々は熊谷陸軍飛行学校の分教場として開設されたそうですが、途中から宇都宮陸軍飛行学校の分教場に変更となりました(参考サイト)。
(地理調査所(現国土地理院) 昭和29年発行5万分の1地形図『結城』より抜粋)
この地図はすでに終戦後で、飛行場用地は払い下げられていたのではないかと思いますが、飛行場の輪郭は掴めると思います。
(国土地理院 平成27年5月発行 1/25000地形図『下館』より抜粋:位置の書き込みは夜行虫)
現在のこの地域の様子です。地図上に「掩体壕」と記入した所には、飛行機を隠しておくための掩体壕が現在でも残っています。
(出典:国土地理院ウェブサイト:http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1より昭和22年撮影空中写真 USA-M606-62より抜粋)
上の地図で「掩体壕」と書いて囲んだところがこの空中写真の左下隅に当たります。道沿いに馬蹄形の構造物がいくつも並んでいるのが見えますが、これが掩体壕です。屋根が無い無蓋掩体壕というもので、土を盛って囲いを作っただけの簡単なものです。この写真の左半分の大部分は現在は家畜改良センターの敷地となっています。その敷地の周囲の道路沿いを歩いてみました。
これは道が直角に折れ曲がる所の南側の掩体壕の一部です。このように今では雑木林のなかに埋もれて全体を俯瞰できるような場所はありません。
上と同じ掩体壕の土手が道路に面した場所。
直角カーブの少し北側の二つの掩体壕がこの茂みの中に隠れています。
カーブ曲がって北側1つ目の掩体壕の土手です。
ここは先ほどの掩体壕よりは見やすい感じです。土手の感じがしっかり残っています。
南から二つ目と思われる掩体壕の土手。南側の壁だと思います。
ここより北側の掩体壕はほとんど残っていないように思います(あっても一か所)。
こういう所の調査はこんな時期に行くものではないと後悔しました(笑)。藪蚊がすごく多いし。
でもこんな光景も見られました。実は天然もののカブトムシが樹液を吸っているところを見るのは初めてだったりするのです(街灯に飛んで来た奴とかなら見たことありますが)。
さて次は分教場や格納庫やらがあった場所です。飛行場の北東隅になります。
(出典:国土地理院ウェブサイト:http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1より昭和36年撮影空中写真 MTK619-C5-8より抜粋、目的位置等を加筆)
これは昭和36年撮影の空中写真ですが、丸い構造物がいくつか見られます。恐らく、弾薬庫や燃料庫なのではないかと想像しています。
(出典:国土地理院ウェブサイト:http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1より平成20年撮影空中写真 CKT20082-C4-22より抜粋、目的位置等を加筆)
平成20年の空中写真です。昭和36年の写真に記した番号の3と4が残っているのが判ります。
1の場所です。
今では家が建っていてその敷地内です。もしかしたらその残骸が残っている可能性は有りますが、今回は調査できませんでした。
1の一つ北側の十字路にあるコンクリート塀。詳細は不明ですが飛行場当時からあるものかも知れません。疑わしいものは取りあえず撮影。
2の場所です。
今はこの一角は太陽光発電に使用されていて見る影もありません。
ただ、この太陽光発電所の敷地内に昔の井戸のようなものがあるのを発見しました。何時のものかははっきりしませんが、飛行場当時のものの可能性もあります。
道路を挟んで向かいには茨城放送の中継所のアンテナが立っていました。
3の場所です。
ここは最近まで残っていたようですが、残念ながら今は太陽光発電所が建設されてしまいました。
もしかしたら昔の境界標?かと思って撮影しました。疑わしいものは取りあえず撮影。
4の場所です。
ここも最近まで残っていたようですが、今は中古車の解体場になっていました。
5の場所です。
ここは空き地なのでもしかすると何かが残っている可能性がありましたが、近くに家が建っていたりするので入るのは諦めました。何となく盛り上がっている個所がそれ???
これは平成20年の空中写真の中に四角で囲った場所にあった昔のコンクリート塀と思われるもの。多分敷地の境界だったのだと思います。
その後は、浄水場の北側の小道をぶらぶら散策してみました。
これは当時の境界標でしょうか?なにも掘られていないので詳細は不明です。
ハグロトンボのオスです。近くにはメスも居ました。
通称アリジゴク。ウスバカゲロウの幼虫の住家です。昔、飼育してウスバカゲロウが孵るのを観察したのを思い出しました。
元飛行場の中心部を南北に走る道は「飛行場通り」と呼ばれています。
飛行場通りの中ほどの公民館の敷地には靖空神社が立ってます。元々は分教場の敷地の方にあったものを移設したそうです。
これは家畜改良センターの南東端に立っている詳細不明な建物。なんとなく昔の駅舎を移築したような感じ。トイレと待合室のような感じの部屋がありました。
その敷地内にあった井戸。もしかしたら昔からのものかも知れません。
一通り見終わった後には、昨年の洪水で被害を受けてしばらく休業していたビアスパーク下妻に行って汗を流しました。